企画の規格。

2006/May/15/

先日の倉敷もそうですが、各地でサイエンスカフェ、サイエンス〜、といった催しが沢山開かれているよーですが。

「催し」でいいのかなあ?

サイエンスカフェの目的って、「身近なサイエンス(と、それを語るサイエンティスト)」を楽しんでもらうってことですよね?
それはわざわざその日のために予定を空けたり会場借りたり準備したりして行くものじゃなくて、
”そこに行けば専門知識持った人がたむろしてるからちょっと話聞いてこよー”
程度のことが、「あたりまえ」になること、ですよね?
そりゃ今はまだサイエンスカフェという試みが始まったばかりですから、認知度あげるために講演会と抱き合わせにしたり、大きい会場とかでやるのもいいと思いますけど、
それじゃいつまでたっても「来る人しかこない」。
溝は変わらず。

もーちょっと、話す方も聞く方も、身構えないでいられるかたち、それこそたまたま入った喫茶店でなんか面白い話してるグループがあるのを耳ダンボにして聞いてきた、くらいのノリで楽しめるのがいいんじゃないのかなあと。
でもってそのテーブルの上に、「毎週○曜日 天文屋雑談中、参戦上等」とか書いた三角錐でもおいておけばいいじゃないか。


なんだかこのままだと「サイエンスカフェの開催方法マニュアル」みたいなのを決められてしまいそうで、
それはちょっと違うんじゃないかなあ、と思った次第でゴザイマス。

ん?なんか似た様なこと既に書かれてたかも。かぶった…(笑)

投稿者 ナツガリ : 15:30 | 雑記

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コメント

「身構えない」サイエンスコミュニケーションの実際の雰囲気って、例えばこういう感じですかね。
http://www.cinra.net/news/article.php?id&eq;321

ちょっとながーいコメントになると思います。ご容赦。

そもそも、“サイエンス・カフェ”が“Cafe Scientifique”でない段階で、元祖に―良くも悪くも―拘束されない可能性を持ち得ると思いますが、それはさておき。
札幌での立ち上げ時、協力の過程で私は“大イベント”を受容して支持しましたが、結局Flagshipの成功と注目は必要だと思ったからです。
今は、CoSTEPが退きたくても紀伊国屋が逃したくない。サイエンスイベントが民間にとってもADでありステータスでありブランドになり得ることを示したことは、多分プラスの要素ではないかと。

ただ、そこに来る人々の中に喫茶店主がいたとして、アレを見ても移植できないですよね。それは確かだし、今の状態では“特設イベント”なんですが。
そういう人に、近所に住む学生なんかが「僕らの身の丈で出来るやり方で、ご興味ないですか」というスケールを変えたレシピが渡せるような仕組みがあればいいだろうな、と思います。

問題の一つは、「今はまだスタイルが見えないけど」と主催者などが発言している中に、サイエンスカフェをいずれ特定の形式に落としていこうとする態度が見え隠れすることではないのかと。
前例は“リファレンス”にはすべきですが“マニュアル”にしてはいけないのです。

催事であれ通常営業であれ、“その場所”で“その客”に提供する“コンテンツとして”の最適化を考えることは変わらないわけです。
オープンスペースでやるのと、日常の食堂でやるので、求められるものが違う。それは当然で、あとはやる側が何かを“求めているか”。その検討をサボって事例のコピーを狙っているとすれば、そのことが問題かも。

勿論、日常の人間同士のコミュニケーションが科学を内包して実現でき、地域や人のコミュニティに密着できる場所が生まれ、育つことが待たれるのは言うまでもないですけれど。

ただ、ですね。
例えば、札幌市内の幾つかの小さくて居心地のいい食堂や喫茶店が、行きつけの研究者と常連客との素敵なコミュニティを生んでいくことが多分一つの成功例なのですが、それが5店舗あってもどれだけの人と出会えるでしょう。
大きな書店のガラス張りロビーで通りかかりの人が足を止める“大きな広告塔”の可能性が、今度はそこから零れ落ちてしまう。
サイエンスカフェという漠然としたものを展開したい人は、メディアに相当する広告と実際の店舗展開のそれぞれの特徴を引き出しながら、社会の全体の中で人の流れや連携が生まれるような戦略を意識したらよいのだと思います。

それから、これは批判される考えかも知れないのですが、科学的な素養や意識が、美徳やスタイルとして支持されることが重要だと思っています。今の大型サイエンスイベントがそうだとは全く思いませんが、つまり「商品クオリティ」「コーディネートされたかっこよさ」として“消費社会”の視線に堪えるものを作る、その体力を得るためには投資を呼べる最初の看板に手をかける意味もあるかと。
本当は、官や研究業界主導の野暮ったさを捨てて、教養を人間的豊かさとして身に纏い、科学的な知性を色気として漂わせるライフスタイルの旗手を獲得したいのですけど。
親や教師が子供に世界への価値観を与え得るとしたら、それはその人が人間的に信頼し憧れ得るかで、多分「この人は魅力的だ。この人が見ている世界は素敵だ」ということが一番重要なんでしょうね。

投稿者 snaito : 2006/May/21/ 21:43

何気ないエントリに真剣レス有難う御座いますー。

確かに、広告塔は必要かもしれません。
オサレイベントとしての科学も、重要だと思います。
地元密着型が望ましいとも、思っています。

どれもこれも、
「参加者主体」のかたちですよね。

「面白そう」だと思って足を止めて覗いてみる
「格好良いから」参加する
「喋りたい」から通う

これらについては問題ないのです。
困るよなあ、と思ったのは
「面白そう」「格好良い」「喋りに行きたい」と思わせるための、主催者側の努力を必要としない
「マニュアル化」です。
「サイエンスカフェとはかくあるべき」という思い込み、定型化、開催してやってるんだ的思考が生まれてしまいません様に、ということです。
そしてそれは、大きな会場を使って大がかりに開催している団体ほど、陥りやすい罠なんじゃないか、と心配していたわけです。
大きい会場でマニュアル化された「カフェ」という名のイベントが淡々と開催されていたって、それは「来る人しかこない」じゃないか、と。

結局言いたいことは一緒なんですよ、

>前例は“リファレンス”にはすべきですが“マニュアル”にしてはいけないのです。

ということです。
毎度言ってますが、デザインを怠るな、という結論なのかも。(笑)

「おもしろがらせる」には停滞しているわけにはいかないのです。テレビだって同じこと繰り返してたらあっというまに消えます。

「その場に留まっていたければ走り続けなければならない」
エンターティナーは皆、赤の女王なんです(笑)

言葉を使うことがうまくないので、言いたいことがきちんと伝わっているか心配なのですが…

投稿者 ナツガリ : 2006/May/21/ 23:18

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